ポエム いのち

いのち


聡明な王子がいた。門からいたずらに外に出
て、世間というものを知ってから、かれは苦
行を重ねた。肉体の痛みで精神の痛みをやわ
らげる日がつづいた。


精神の痛み。それが何なのか、いつも考えて
いた。そこでまさしくみずからが考えたり、
思ったりしていることに気づいた。それを止
められれば、精神の痛みはなくなるのではな
いのか。通りがけの女の手に抱えられていた
乳白色のミルク壺が光った。


大きな樹のもとに静かに坐って、みずからの
精神の動きを観察した。考えや思いが次次と
湧いて出ては、変わっていった。過去のこと
も、現在のことも、未来のことも、脳裏をか
けめぐっては、また変わってゆく。


摑みどころのないこの精神の動きは、その摑
みどころのなさゆえに、根拠は欲望に根づい
た妄想であったと知った。根拠をなくせば、
すべて妄想であるはずだ。


呼吸がかれの胸をふくらませた。汗がかれの
顎から滴った。かれは妄想にまかせて、それ
に捉われないでいた。やって来ては去ってゆ
く考えや思いは、何処から来て、何処に去っ
てゆくのか。


頭の思いは、有るにはあるが、無いと言えば
ない。われわれが妄想に捉われていることは、
はっきりした。この妄想があるからこそ、そ
れを除けば、一切空ということが分かるのだ。


この考えや思いが無いならば、われわれにあ
るのは、いま生きている、生かされているい
のちの他に何もない。すべての生きとし生け
るものは、ひとしく同じ原理をそなえている
いのちではないのか。


一切衆生悉有仏性。山川艸木悉皆成仏。生き
ているかぎりすべてのものがいのちに保たれ
ているのだ。平等でもなく、勝ってもなく、
劣ってもいないいのち。他のひとびとは、そ
れに気づいていないだけなのだとかれは知っ
たのだ。大地に腰を落ち着けてじっと坐るか
れの頭上で、五月の青い風が大きな樹の葉を
ことごとく揺らした。