ポエム 伽藍堂

伽藍堂


われわれの中身、思うこと、考え方はひとに
よって全く違うが、この伽藍堂という構造。
伽藍堂のように中空がある構造。われわれが
それぞれに考えたり、思ったりする幻影がそ
の中空を漂うことだけは確かなようだ。何も
ないから、すべてありうるという伽藍堂、つ
まりわれわれのこころの構造自体は誰にとっ
ても同じなのだ。 幻影をなくすのは不可能だ。


ただ幻影を幻影 として認識するとき、現実は
現実として、い くらか、はっきりとして現れ
てくるのだ。幻 影は現れては、また消えてゆ
く。幻影を摑ま ないで、手放しにすることが
肝要なのだ。


われわれの馬鹿さ加減は幻影と現実を結ぶと
ころから起こるのだ。こころに思うことと眼
 に見える現実とは違うものなのに、それを一
 連の作用のように思い違いをしてしまう。し
 かも幻影を現実とまぜこぜにしてしまってい 
るひとが多い。とても多いのだ。


 人生はゲームではない。われわれは全くの見 
当違いをしているのだ。生死。まずこれは動 
かせまい。誰もが例外なく生まれれば死ぬの 
だ。死んだものに勝敗はない。死ぬ前にある 
のは、懸命に生きたとしても、まだ努力が足
 りなかったのでないかという後悔かもしれな 
い。


 われわれはまず死ぬということを考え抜いて、
 生きなければならない。ところが、残念なが 
ら伽藍堂の構造をもったこころであるから、 
考え抜いても答えは出てこないのだ。考えれ 
ば答えが出るという教育からして間違った慣
 習なのだ。 


どうやら、また伽藍堂の堂堂めぐりの季節が 
やって来たようだ。世界の哲学者の頂点に君 
臨したひとも、自分の死を計算に入れるのは 
遅かったようだ。幻影と現実をまぜこぜにし 
ている人間たち。それがわれわれの凡庸な姿 
なのだから、とり立てて悲しむ必要もあるま
 い。志とは死をも含めて一生を貫くものでは
 なかったか。惜しむらくはそれのみだ。