ポエム 空白のニルヴァーナ

空白のニルヴァーナ


ひとつの状況は鳩の来る公園で始まった。郵
便夫が、鞄からとりだした封筒の封を切って
いた。届くことのない郵便物が、個人的な指
先で開封されてよいものかどうか。地鳴りの
ような音をたてて、車が行き過ぎた。


空白の三年、そのまえの空白の五年。おれは
言葉を求めてさまようことなく、こどもたち
と別れを告げることもなかった。太陽がふた
つないのと同様に、一通の手紙は戻ってくる
ことがなかった。


ひとつの家郷から、もうひとつの家郷へ。さ
らにもうひとつの家郷へ。つまり何処にもな
い家郷。何処にでもある家郷。得るものは何
もなく、失うものはおれの身心のみだった。
見たものがすべて整わないままに、何も摑ま
ない手のなかに、祈りを包んでいた。


祈りは育つ途中のしるべであり、太虚に他な
らなかった。平等でなく、劣ってもいず、勝
ってもいないひとつの生命力のかたちとして、
わが身心はあった。指を折って数えられるも
のは何ひとつない。


食事と眠りと安らかな活動。思っていること
を勘定に入れることはなかった。過去のこと
はもう何処にもない。探しあぐねることもな
い。他人とは一切のかかわりのない天地に生
きているのだ。好むひともなく、憎むひとも
ない。おれはひとつのフィルターに過ぎない。


ここでは手に触れるものが、草木のかたちを
していないので、春の雨に虚空を迷う塵埃が
そそぎとられて、路からコンクリートの溝に
流されて、下にくだってゆく。虚空はひとと
きのきよらかさをとりもどし、われわれの気
管をとおって呼吸させるのだ。

ポエム 無明の水甕

無明の水甕


埋立地の倉庫に並び積まれている水甕。もは
やこの世に存在したかどうかも忘れ去られて
いる腐った水の溜まった水甕がある。


流行歌を唄うくらいの罪悪感の伴わない集団
的暴力のために、悪徳の貨幣を受けとるもの。
悪徳にかんして抑制をもたないのは、妄執に
かんする悪弊が脳髄の、つまりはそれが世間
の見本となってしまっているからだ。


水滴が一粒ひとつぶ落ちる。やがては大きな
水甕いっぱいになる。清水でも腐った水でも
それは同じこと。清水の水甕になるか、腐っ
た水の水甕になるか、どちらにせよ、そのも
のの人生がかかわっているのだ。


いま在るということは、いずれ遠からず無く
なることだ。みずからの人生を選ぶのはおの
れ自身なのだ。死ぬときになって、罅割れた
悔恨をする羽目になるのだ。


短い、とても短い人生で腐った水の溜まった
水甕になって破棄されるその数は非常に多い。
そんな水甕が埋立地の倉庫に山となって並べ
積まれているのだ。真実ははるかな過去から
不滅であり、不滅の電球がその倉庫にそれら
の水甕を照らし出している。

合掌のてのひら

合掌のてのひら
              ──K・Mへ


生を捨てる。死を捨てる。いかさまのこの世
に別れを告げる。妄想の死に、あるいは妄想
の死後に別れを告げる。ひとびとのフェティ
シュな欲望。かませもののための玩具の勲章
と暴力の札束。この世の飾りから立ち去って、
おれは徒歩で歩む。


さあ、おまえの欲しいものは揃っている。好
きなだけとって行け。おまえの黄金の玩具箱
を限りない欲望で満たせ。ギャングストーカ
ーよ、ノイジーな音を高らかに掲げよ。欠け
た甍のような無知と虚偽で成り立つおまえた
ちの生き方が問われることはないのだから。


うんざりする虚栄の咲きほこる地上の光。失
われた闇夜のなかでの享楽。舌先に飾る屈辱
の言葉。見えなければ許されるレーザー光線
という拷問を楽しめ。偽善者たちのみずから
を正当化して騙る正しい悪。それでも、おま
えは満足することがない。貪欲はさらに貪欲
をむさぼるからだ。


青嵐のなかで、さらにまたおれのなかの青嵐
のなかで掌を合わせるものがいる。生死を捨
てて生きる。それが最上の安楽だ。生理的な
ことを除いて、みずからの頭に浮かぶことが
ほとんど妄想だと分かるからだ。生死を捨て
て生きるいのち。この生きているいのちだけ
が本物だ。あとは妄想として、永くこころに
残すことはない。