紙の表裏

紙の表裏


われわれは進歩しているのか、退歩している
のか分からないが、おのれに与えられた時間
を生きねばならない。損得盈虚は時間の常だ。
深く生きるということなら、すこしは判る。
じっくり硬い土に根をつけるには、どうして
も時間が必要になってくる。何事もひとつの
道を貫くほかないのだ。損と得とは一枚の紙
の裏表。どちらにも学ぶべきところがある。


死んだら灰になる人生に特別なこととて、も
ともとないのだ。あるいは、すべてが特別な
ことだ。ただ生きているという不思議。老い
るという不思議。死ぬという不思議。生まれ
てきたという不思議。それをまえもって考慮
に入れられない不思議。もう同じ時間を二度
と生きないことだけが確かなことだ。


一枚の紙を破くとき、破けるのは損や得だけ 
ではない。考えようとするすべてが破けるの 
だ。そもそも、考えるというのは何なのか。
 脳髄の一作用である。おこがましくも卑しい
 われわれが考えるというのは、どうしても卑 
しいことに違いない。それでも考えるという 
ことは、考えるという欲望に依っているのだ。 


ろくな考えでもない考えを考えるほど馬鹿ば
 かしいものはない。おれの考えもその範疇に
 入る。その愚にもつかぬ考えをよく見れば、 
何のことはないひとときの妄想にしくはない。
 たとえ考えであっても、すぐに消えてしまう
 ものだ。その馬糞のような考えを握ってしま
 う慣習のあるひとの多さ、ともに凡夫である。

ポエム 伽藍堂

伽藍堂


われわれの中身、思うこと、考え方はひとに
よって全く違うが、この伽藍堂という構造。
伽藍堂のように中空がある構造。われわれが
それぞれに考えたり、思ったりする幻影がそ
の中空を漂うことだけは確かなようだ。何も
ないから、すべてありうるという伽藍堂、つ
まりわれわれのこころの構造自体は誰にとっ
ても同じなのだ。 幻影をなくすのは不可能だ。


ただ幻影を幻影 として認識するとき、現実は
現実として、い くらか、はっきりとして現れ
てくるのだ。幻 影は現れては、また消えてゆ
く。幻影を摑ま ないで、手放しにすることが
肝要なのだ。


われわれの馬鹿さ加減は幻影と現実を結ぶと
ころから起こるのだ。こころに思うことと眼
 に見える現実とは違うものなのに、それを一
 連の作用のように思い違いをしてしまう。し
 かも幻影を現実とまぜこぜにしてしまってい 
るひとが多い。とても多いのだ。


 人生はゲームではない。われわれは全くの見 
当違いをしているのだ。生死。まずこれは動 
かせまい。誰もが例外なく生まれれば死ぬの 
だ。死んだものに勝敗はない。死ぬ前にある 
のは、懸命に生きたとしても、まだ努力が足
 りなかったのでないかという後悔かもしれな 
い。


 われわれはまず死ぬということを考え抜いて、
 生きなければならない。ところが、残念なが 
ら伽藍堂の構造をもったこころであるから、 
考え抜いても答えは出てこないのだ。考えれ 
ば答えが出るという教育からして間違った慣
 習なのだ。 


どうやら、また伽藍堂の堂堂めぐりの季節が 
やって来たようだ。世界の哲学者の頂点に君 
臨したひとも、自分の死を計算に入れるのは 
遅かったようだ。幻影と現実をまぜこぜにし 
ている人間たち。それがわれわれの凡庸な姿 
なのだから、とり立てて悲しむ必要もあるま
 い。志とは死をも含めて一生を貫くものでは
 なかったか。惜しむらくはそれのみだ。

再会

再会


夜の満員電車のなかで、かれのボタンに毛糸
の紐が引っかかった。彼女の手袋の紐だった。
彼女はその駅で降りようとしていたので、仕
方なく、かれも降りることになった。かれは
彼女を見て、驚いた。彼女も同様だった。三
十年も昔に別れた恋人だった。


顔を見合わせ、お互いに黙りこんだ。かれが
何 から話そうかと、思案しているときに、や
はり 彼女から言葉が出た。わたし、老けたで
しょ。 彼女の言葉とともに白い息が立ちのぼ
って、風 に吹かれて消えた。寒いから喫茶店
でも、かれ が誘った。ふたりは紐を外しなが
ら、駅の階段 を下りていった。


 喫茶店でふたりはコートを脱ぎ、彼女は両手を
 こすりながら、ホットコーヒーを頼んだ。かれ 
はアイスコーヒーを頼んだ。あいかわらずねと 
彼女が笑った。かれは少し前に、離婚したこと 
を話した。彼女は、それでわたしはどうしたら
 いいのと訊いた。わたしは独身なのよ。恋はた 
くさんしたけどね。


 最後に見かけたのも電車のなかだった。やけに 
空いた電車のちょうど前の席に、彼女とその友
 達が乗っていた。彼女の友達が、かれのことを 
話したが、彼女は恥ずかしそうに、少しさびし
 そうに下を向いていた。彼女は最後まで視線を 
そらした。かれは彼女に何か話しかけたかった。 
できれば、謝りたかった。 


ふたりが若くて何も知らなかったことについて、 
いまはふたりともよく分かっていた。昔は本当
 に馬鹿なことをしたねとかれが言った。そうね、
 と彼女が相槌を打った。何か昔の友達のこと を
話して、突然、言葉が途切れた。彼女はさ っと
涙を手で拭いた。かれも言葉に詰まった。 これ、
おれの携帯番号なんだけどとかれは、 メモを渡
した。彼女は黙ったままだった。か れは席を立
ち、コートを羽織った。掛かって くるまでいつ
までも待ってるからねと、まだ 涙をこらえてい
る彼女に言った。彼女はちい さくうなづいた。