ポエム 記憶のトルソ

記憶のトルソ


ひとりが蹲っているとき、もうひとりは走ら
なければならなかった。おお、記憶のトルソ
よ。頭のない、腕のない、脚のない、なまめ
 かしく捻じれたその胴さえもないおまえ。い 
なくなったおまえのために、ひとりが蹲り、
 ひとりが走るのだ。おまえの血は、われわれ
 のなかにも巡っているのだ。


 幻の馬。幻のおまえ。柔らかな土のうえに残
 されるその馬蹄形の足跡。いなくなったおま 
えに弔いの鐘もなく、死に拮抗するようにし
 てはじめて生きえたおまえが荼毘にふされる。 
あまたの中世の甲冑の山の頂でおまえの亡骸 
が燃えさかる。


 おまえが生きた足跡も、日々の雨のなかで消
 えてゆく。蹄鉄、鐘、甲冑の鼻を突くような
 金臭さだけがあたりに漂う。ひとりは蹲った 
まま石化し、ひとりは走り去ったまま風とな
 る。石はまた風化して、風だけが風と戯れる。
ひとびとの行きかう瀝青とコンクリートの裏
 側に駆け走る馬、登楼の鹹い鐘、赤く染まっ 
た甲冑。おまえのいないすべての都市という 
荒野のなかで、風だけが孤独に生き残るのだ。 
記憶のトルソ。ひとりの生きた痕跡。そのた
 めにまた、都市の中央でひとりが蹲り、ひと
 りが走らなければならなかったのだ。

ID:8d8fxb

ポエム 水霊のめぐり

水霊のめぐり


岩壁の罅の入ったところどころから、沁みだ
してくる薄い水のヴェール。陽に輝いている
水の岩壁。おれは工事中の駅の構内にいても、
その罅より湧きだす水を視ることができる。
てのひらで触れれば、落ちくる流れのなかに
おれの熱いてのひらを冷たく覆う水。すべて
あたらしい水として、おれのてのひらから飛
び散って、わがいのちを純粋に熱くする。


生きているあいだは、目的を持ってもよいだ
ろう。穢れのない目的を。われわれの根底に
あるいのち。いのちのちから。われわれは奇
妙なことだが、一瞬の永遠を生きつづけてい
るのだ。馬鹿な楽しみは楽しみでも何でもな
い苦い過去になる他はない。生死と言えばそ 
れまでなのに、みずからのいのちに目覚める
ことなく哀れに死んでゆくひとたちよ。


 地息する場所をたどり、ああ、岩肌づたいに 
ながれくる水の音が聞こえる。その水は足も
との岩場の隙をはげしく零れおちていって、
また視界から消えるが、われわれのいのちを
潤すためにまた何処からか、眼の見えるとこ 
ろへと経めぐって来るのだ。