記憶のトルソ
ひとりが蹲っているとき、もうひとりは走ら
なければならなかった。おお、記憶のトルソ
よ。頭のない、腕のない、脚のない、なまめ
かしく捻じれたその胴さえもないおまえ。い
なくなったおまえのために、ひとりが蹲り、
ひとりが走るのだ。おまえの血は、われわれ
のなかにも巡っているのだ。
幻の馬。幻のおまえ。柔らかな土のうえに残
されるその馬蹄形の足跡。いなくなったおま
えに弔いの鐘もなく、死に拮抗するようにし
てはじめて生きえたおまえが荼毘にふされる。
あまたの中世の甲冑の山の頂でおまえの亡骸
が燃えさかる。
おまえが生きた足跡も、日々の雨のなかで消
えてゆく。蹄鉄、鐘、甲冑の鼻を突くような
金臭さだけがあたりに漂う。ひとりは蹲った
まま石化し、ひとりは走り去ったまま風とな
る。石はまた風化して、風だけが風と戯れる。
ひとびとの行きかう瀝青とコンクリートの裏
側に駆け走る馬、登楼の鹹い鐘、赤く染まっ
た甲冑。おまえのいないすべての都市という
荒野のなかで、風だけが孤独に生き残るのだ。
記憶のトルソ。ひとりの生きた痕跡。そのた
めにまた、都市の中央でひとりが蹲り、ひと
りが走らなければならなかったのだ。